箱根ガラスの森美術館、足柄下郡、日本

箱根ガラスの森美術館は1996年8月8日、ヴェネツィアのガラス専門美術館として開館しました。 博物館は神奈川県箱根町の仙石原にあり、尾鷲を見下ろす緑の林に囲まれています。 ルネッサンス期に作られたレースグラスのエナメル杯と巨大な皿の傑作を含む博物館のコレクションを通して、16世紀から20世紀にかけてのヴェネツィアのガラスの歴史を概説することができます。 展示室(ヴェネツィアガラス博物館)、博物館店、水車(Acero)、カフェレストラン(La Canzone)は、ヨーロッパ貴族の別荘を想起させた庭園と池の中央に4つの建物があります。 箱根ベネチアガラス博物館は理想的な雰囲気と環境の中でベネチアガラスの美しさを感じます。

ヴェネチアン・グラスとは
紺碧のアドリア海に面した北イタリアの水の都ヴェネチア。ヴェネチアン・グラスは、古代ローマ時代のローマン・グラスの発明にその起源を発するともいわれ、当時すでにイタリア半島全域には多くのガラス工房が作られていました。ガラス生産の中心地は、1291年には現在のヴェネチア共和国の「ガラス製造業者および工人・助手、家族等のすべてをムラノ島に移住させ、島外に脱出する者には死罪を課す」という強力な保護政策により、リアルト島の隣のムラノ島へと移ります。そして今日に至るまで、ムラノ島はヴェネチアン・グラスの中心地であり、ムラノ島の人々は、ヴェネチアン・グラスと運命を共にしてきました。

古代ローマ帝国時代
ヴェネチアン・グラスの歴史は、古代ローマ帝国(前1~5世紀)のローマン・グラスから始まるといわれます。革命的発明の「吹きガラス技法」により、当時すでにイタリア半島全域には多くのガラス工房が作られ、その技術や製品は全世界に広まりますが、やがて西ローマ帝国の崩壊(476年)とともに、急速に衰えます。

リアルト島
8世紀に入ると、当時のヴェネチア共和国の中心はリアルト島へ移動し、島内各地での教会や聖堂の建設ラッシュに伴い、ガラス工房も多くこの島へ移ったとされています。

ガラス業界の活況
1078年にはサン・マルコ大聖堂の再建が始まり、全壁面にガラス・モザイクが施されたり、当時の文献には、ガラス製造の慣例と規則に違反した罪で29人のガラス工人に罰金刑が課されたことの記載もあり、ガラス業界の活況が想像される時代です。

政府の保護と管理
13世紀に入ると、1268年にヴェネチア・ガラス同業組合が結成されたり、シリアのガラス最大の産地アンティオキアとのガラス素材原料の輸入契約、燃料の管理合理化のための薪の政府直轄統制、夏期操業の禁止など、政府の積極的介入が強化されます。そして1291年には、ヴェネチア共和国政府の保護の下、『ガラス製造業者および工人・助手、家族等のすべてをムラノ島に集中的に移住させ、島外に脱出する者には死罪を課す』という厳罰体制での管理が始まり、その後のヴェネチアン・グラスは、ムラノ島を中心として発展していくことになります。

ヴェネチアン・グラスの最盛期
13~14世紀には、特にエナメル彩色の技法とデザインなどに、ビザンチンやイスラムなどの影響を強く受けながら発展し、15世紀に入ると、イタリア・ルネサンスを背景にさらに円熟します。16世紀後半には、ダイヤモンドポイント彫り、レース・グラス、クリスタル・グラス、アイス・クラック・グラス、マーブル・グラスなどの、繊細で華麗な新しい技法が続々と生み出され、いろいろな形態や機能のガラス作品が造り出され、ヴェネチアン・グラスは最盛期を迎えます。

繁栄の翳り
14世紀以来、地中海貿易の独占、イタリア・ルネサンス繁栄の恩恵などで、一時はヨーロッパ市場の90%を占有するほどに成長したヴェネチアのガラス産業も、17世紀に入ると、イギリスの鉛クリスタル・グラスの発明、神聖ローマ帝国のボヘミアン・グラスの育成、水晶彫りバロック・グラスの流行などで、危機に直面します。イギリスやボヘミア(現チェコスロバキア)に対抗するためにこの時代に作成されたのが、過剰装飾ともいえる龍脚の装飾ステムや、アップリケ装飾を多用した華やかな作品です。

苦難の時代
18世紀に入るとヨーロッパでは新しい産業主義が興り、各国は自国産業保護のために輸入品の高率関税化を始め、ガラス生産国では輸出の激減、ガラス工場の倒産など、ムラノ島もその例外ではありませんでした。ムラノ島ではこの苦境を乗り越えるために、より細密なモザイク製品、教会の内装や装身具の製作、アフリカや東南アジアへの輸出など、あらゆる努力がなされます。しかし、1797年にはヴェネチア共和国解体により、政府のガラス産業庇護の時代が終焉、10年後の1806年にはムラノ島で500年続いた由緒あるガラス職人組合が解散を余儀なくされます。

ヴェネチアン・グラスの近代化
途方に暮れるムラノ島のガラス産業でしたが、新しい時代が動き始めます。19世紀を迎え近代化の道を踏み出していた時代は、新しい産業や教育の舞台として、美術館・博物館・資料館作りのブームを生み出します。博物館などの建設には不足する古い資料を必要とし、ムラノ島の名工たちは、古代作品の復刻作りに活路を見い出します。その後、他国のガラス産業には真似のできない色ガラスを基本としたガラス・モザイク技術による古い教会壁画の修復、インテリア部門などの新しいジャンルの開拓など、苦難の時代からの新たな出発が始まりました。そしてムラノ島でも、近代的な生産工場の建設、閉鎖的な体質の改善、子弟教育機関の設置、ガラス博物館の建設、展覧会や研究会の開催などの新しい運動が次々に生まれていきます。こうして先覚者と伝統的工人の提携により、ヴェネチアン・グラスは窮地を脱出し、近代化の道を踏み出し始めました。

点彩花文蓋付ゴブレット 1500年頃 ヴェネチア
かつてロスチャイルド家の所蔵品として、名品中の名品と讃えられた作品。イスラムの華といわれる点彩文様とビザンチン様式の器形の醸し出す独特の雰囲気は、東西文化交流の要所として繁栄したヴェネチアをもっとも象徴的に表現しています。

レース・グラス蓋付ゴブレット 16世紀~17世紀 ヴェネチア
15、6世紀、世界の名声を馳せ、ヨーロッパ貴族の憧れの的となっていたヴェネチア特産のレース。その名だたるレース文様を何とかして無色透明なガラスの中に封じ込めないものかと、ムラノ島のガラス職人たちが技巧の限り尽くして、創作に取り組み、門外不出の秘法として守られることになったレース・グラスの作品。

ヴァンジェリスティ家紋章文コンポート 16世紀末~17世紀初 ヴェネチア
16世紀初めに、イタリアで創始されたダイヤモンド・ポイント彫りの技法は、もともとヴェネチアの名高いレースの繊細な美しいデザインとその人気をガラスに取り込もうとしたもので、ダイヤモンドの尖端を使って、透明ガラス器の表面に細かい線や点で文様などを彫刻する技法です。

ミルフィオリ・グラス花器 1890~1910年 ヴェネチア
色ガラスを組み合わせて作る、モザイク・グラスの一種で、その起源は、古代ローマ時代に遡る。様々な色を配した花模様のモザイク・グラスで、器全体に花が咲いているように見えるところから、千の花という意味の「ミルフィオリ・グラス」と呼ばれます。

ドルフィン形脚赤色コンポート 19世紀 ヴェネチア サルヴィアーティ工房
サルヴィアーティ工房は1859年弁護士アントニオ・サルヴィアーティによりムラノ島に設立され、かつての最盛期に作られた作品を復元したガラス器やシャンデリアを製作し、衰退していたヴェネチアン・グラス復興の一翼を担いました。この作品はムラノのガラス職人に特に愛されたピンクがかった赤で着色料として金を溶かしたものを使って作りました。

マーブル・グラス・デカンター 16~17世紀 ヴェネチア
この作品は、マーブル(大理石)の模様をモチーフに作られました。様々な色が調和し、まるで本物の大理石のようです。また、この作品は、光を透かすと夕日のような美しい赤色に変化するため、カルセドーニオ(紅玉髄)とも呼ばれます。