法隆寺献納宝物伎楽面、東京国立博物館

法隆寺献納宝物のうち、飛鳥時代から奈良時代の伎楽面を中心にした展示です。

法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)

伎楽面(ぎがくめん)は、古代日本で演じられた仮面舞踊劇である伎楽に用いられた仮面。世界最古に属する面としてその歴史的意義は大きい。また近年、新伎楽に使用するため復興された伎楽面もある。

伎楽は呉(中国江南地方)から日本へ伝えられた仮面舞踊劇であり、滑稽な所作を伴うパントマイム(無言劇)であった。その起源については、使用される仮面の民族的特徴に中国人よりはアーリア系の要素が色濃くみられることから、西域(中央アジア)方面で発祥し、シルクロードを経て中国江南地方で完成されたものと推定されている。

百済人味摩之(くだらひとみまし)帰化(まうきおもむ)けり、曰はく、「呉に学びて伎楽(くれがく)の舞を得たり」、即ち桜井に安置(はべ)らしめて少年(わらはべ)を集へて、伎楽の舞を習はしむ(百済からの帰化人である味摩之が、呉(中国南部)で伎楽の舞を学んだと言うので、大和の桜井に少年らを集めて伎楽の舞を習得させた)

『書紀』の朱鳥元年(686年)4月壬午条には「新羅の客等(まらうとら)に饗(あへ)たまはむが為に、川原寺の伎楽を筑紫に運べり」(新羅からの客人をもてなすために、川原寺の伎楽(舞人、装束、楽器等)を筑紫に運んだ)とあり、この頃、飛鳥の川原寺で伎楽が行われていたことがうかがえる。

伎楽は平安時代には衰退し廃絶してしまったため、その所作やストーリーの詳細は不明である。天福元年(1232年)、興福寺の楽人であった狛近真が著した『教訓抄』によると、歯をむき出し、獣のような容貌の崑崙が卑猥な所作をしながら呉女に懸想するが、力士によって追い払われるといった、滑稽な筋のものであった。

大きくわけて木彫と乾漆(麻布を型に当て、漆で張り重ねて素地をつくったもの)があり、木彫は飛鳥時代のものがおおむねクスノキ、奈良時代がキリをつかって作られている。伎楽面は、能面などにみられる顔をおおうだけの形態とちがって、頭からすっぽりかぶるものであった。この特徴からギリシャ悲劇の仮面との共通性が指摘され、伎楽の伝来がギリシャであるという説もとなえられたが、詳細は不明である。

使用されている顔料については1983年より宮内庁が正倉院の26面の伎楽面に対しX線検査および電子顕微鏡観察を行っており、それら炭酸カルシウム顔料の多くが、貝殻を原料とするものであることが明らかになっているほか、同じ白色顔料が正倉院宝物館所蔵の他の伎楽面以外の宝物に使われたことも明らかになっている。

伎楽面は造形的にもすぐれ、仏師の手になるものもあるといわれている。一見した印象では架空の動物や、当時の諸外国人の表情を伝えたものであるという感じを受ける。

東京国立博物館

東京国立博物館は、わが国の総合的な博物館として日本を中心に広く東洋諸地域にわたる文化財を収集・保管して公衆の観覧に供するとともに、これに関連する調査研究および教育普及事業等を行うことにより、貴重な国民的財産である文化財の保存および活用を図ることを目的としています。

平成19年4月1日からは、東京国立博物館の所属する独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所が統合され「独立行政法人国立文化財機構」が発足しました。新法人のもと貴重な国民的財産である文化財の保存及び活用を、より一層効率的かつ効果的に推進していきます。